LM314V21

アニメや特撮やゲームやフィギュアの他、いしじまえいわの日記など関する気ままなブログです。

夢見る者達の楽園 ファンタジア「自分の首を絞める男」

 乾いた音をたててドアが開かれた。朝日を逆光に立つのは一人。大きなリュックと剣、それらが彼が旅人である事を示していた。彼はからっぽの店内を一瞥すると、真っすぐにカウンターへと歩みよった。荷物を置き、安っぽい椅子に腰を落とす。そのどろくさい顔を見れば、まだ若いが確かに強い意思を持った者の面構えである。
「どうだった、この街は」
ひょろっとした細顎の主人が問うと、彼は不機嫌そうな口調で返事を返した。
「最悪だった」
 アースと名乗ったその男は、朝から酒を飲を頼み、自分がこの街、デューラッツォの門をくぐった時のことを話しだした。それが何より今の彼を不快にさせる原因だから。
 デューラッツォ街は高い城壁によって囲まれている。彼は今朝、その北門から入って来た。すぐに感じられたのは、腐れた臭いと視界一面のスラム街だった。建物らしい建物は無く、辺り一面板切れや竹でできた小屋が木に寄りかかってやっと建っている。近くを通ると裸同然の格好の人々が集まり、金をくれとせがむのだ。このように動ける者はまだましで、ろくに風も防がない小屋で横になったまま動かない者もいる。本当は彼等を助けてやりたいが、アースは人を救う奇蹟を起こすことができる神の使徒でもなければ魔法使いでもない。ましてや医者であるはずもない。彼らに出せる金もない。一介の旅人が目の前の瀕死同然の人々を救うのは無理なことだったのだ。
 しかしこのくらいのことならこれまで何度もあったし、彼自身がその様に見えた事もあった筈だ。彼が最悪だと言った理由となる事は、彼が自分の財布の一つを人々に投げ与えた後、街道の南から一台の馬車が現れてから起こった。
 兜を被り剣を携えた三人の男が目前に馬車を止め、降りた。アースは服装等から、役人が食べ物を配給しにでもきたのかと思った。しかしそれにしては人々の動きが少なく、車に何も乗っていない。男達は横になって動かない人の足首を掴み、引きずって車に乗せはじめた。彼等は死体処理員だったのだ。触れてみて少々動いたりしても、それが瀕死の場合、剣を抜いて一撃を加えてから同じように車に積んでいった。
 アースは怒りから剣の柄を握った。しかし間を取って考えた。この男達を切り殺しても意味はないし、彼等だって好きでこんな事をしているはずはない。柄から手を離し、役人達の兜の下の表情を信じてその場を去った。街道を下り、そして今この酒場、ガデルの魂亭にたどり着いたのだ。
 グラスは空っぽになった。少し温かくなったアースは、ここまで話して空のグラスの淵を指先でなぞり、指先を目で追っている。突然に酒場の主人がグラスを彼の手からひったくった。すぐさま相手の顔を見上げ睨み付けると、相手も同じように凝視してくる。
「話は聞いた。旅人のあんたに頼み事があるんだが、どうだ」
間をおいて、聞いてやろうとアースは答えた。
 その男ゾシュは、デューラッツォ街が乱れているのは領主の政治のためだと説明した。過去にこの街を悪の手から救った英雄、ガデル・バハールの血を継ぐガネシオアル卿の悪政により市民は苦しみ、一部の貴族と政治家だけが裕福な暮らしをしているのだという。
 そんな体制を崩すべくゾシュは同志を集め、反政府運動をしている。そしてガネシオアル卿が数日中に何らかの動きをとるという情報を手に入れた。仲間内での通説は街の外への逃亡なのだそうだ。テロリストの活動の増加のため、事実何人かの貴族は近辺の都市へ逃げてしまったし、ガネシオアル卿も周りの人間の解雇などの準備が見られるので間違いは無いだろう。
 ゾシュ達は革命を起こすため、彼をこの機会に暗殺しようというのだ。アースが頼まれた仕事は、屋敷に潜入して彼の動きを見張ることだった。意外な様だが、街の人間、特に金持ちはよく旅人を招く。隙があればその場で実行してもいい。それが無理ならそのまま屋敷を出て、様子をゾシュに知らせるだけでもいい。その場合、後の奇襲作戦にも協力する。ガネシオアル卿の逃げ道となる所を掴んでいるのだそうだ。
 話は全て終わった。彼はカウンターの下から紙切れと金貨を何枚か取り出した。
「十枚だ。首尾よく計画が成就すれば、もう五倍くれてやろう」
カウンターに積み上げられた金貨を見、少し考えた。そういえば、自分も見たような気がする。貧民窟の上空に浮かぶ巨大な柱の影を。あれは権力者の住む建物だったのか。
 数秒後には紙片を折り畳み、それと金貨を掴んで席を立ち、荷物を背負う。
「拒否すりゃあ、情報を洩らさないように俺を殺すつもりなんだろう」
そう言ってアースはガデルの魂亭から出ていった。ゾシュはその背中を見送りもせず、残されたグラスを洗うため店の奥に消えてゆく。
 この街に来たのは初めてだったが、一度人に聞くだけでガネシオアル邸を見つける事ができた。周りとは明らかに造りが違う豪華な屋敷だ。高くて分厚い壁で周りを囲み、正面には金属製の枠着きの門があって、その両脇には兵士が立っている。確かにここを正攻法で攻め落とすには、多くの兵士と卓越した技を持つ魔法使い、それに莫大な金が必要だ。
そんな事を考え、アースは兵士に話しかけた。もし自分の素性がばれれば、即刻ここで切り殺される事になる。
「旅の者だが、ここの領主に会いたい」
兵士の表情が少し動いた。汗が吹き出す。話しかけた兵士が門の脇の椅子に座っている上司の所まで行って何かを話している。今の時点でばれることは有りえない。そうと分かっているくせに冷や汗の止まらないアースの前に、兵士が戻ってきてこう言った。
「旅人なら通せとのことだ。しかし武器は預からせてもらう」
 アースは言われたとおり剣と狩猟用の弓を兵士に渡し、門の隣の小さな扉をくぐった。実はリュックの中には火薬を使った爆発物等の武器になるものが幾らでもあったのだが、そのまま通してくれたため、持って入ることになった。これだけの警備をしておいて間抜けなことだ。運がいい限りである。
 中は色鮮やかな庭だった。一面が花で覆われ、真っ直ぐに屋敷の玄関まで通じる小道の両脇には背の低い植木が等間隔に植えてある。風が吹けば、草花が波うち、自然の香りが鼻をくすぐる。突然の事実に、アースはここがデューラッツォ街の一部だという事を疑った。壁の向こうでは汚らしい町並みと異臭しか印象になかったが、ここはそれが虚構だったかのように美しい。不気味な位に、だ。
 そう考えながら正面の屋敷に向かって歩いていると、不意に視線を感じた。見れば、花畑の中に小さな女の子が座っている。こちらが気づくずっと前からアースを見ていたらしい。少女は手に摘んだばかりの花を持って微笑んでいる。
「ガネシオアル卿に会いたいんだ。案内してくれないか」
だが少女は何も言わず、優しい表情で笑顔を作るのみだ。自分の声が届かなかったのだろうか。そう思ってもう一度聞いてみた。
「ガネシオアル卿に会って、話がしたいんだ」
彼の口が動いたのを見、少女はゆっくり立ち上がった。とたんに滑らかな金の髪と白いドレスが風に流されそうになる。スカートを手で押さえつつ彼のもとへ来ると、青い瞳で彼の目を覗き込んで微笑んだ。その人見知りしない態度にアースは驚いた。その瞬間に少女は彼の手に無理矢理花を持たせ、屋敷の方へと走っていった。アースはすぐに待ってくれと言ったが、その呼びかけにも応えず、彼女は屋敷の入り口へ消えていってしまった。
 また風が吹いて、アースは自分の手の中にある花に気づいた。ピンクの花と白の花。名前は知らない。しかし綺麗な花だ。
 そこでアースははっとした。自分は無残な死を遂げるばかりの街の人々を救うために、独裁者をこの手で倒すためにここに来たのだ。なのに、どうして花を愛でている暇などあろう。そう思うと無意識に手に力が入り、その中の花が妙な形に曲がってしまう。
 扉の開く音が響いた。屋敷の入り口が開いて二人の人が現れる。一人はさっきの少女でもう片方はしっかりした長身の、ぱりっとした服の似合う中年男性だった。恐らく彼がこの屋敷の主人、ガネシオアル卿であろうとアースは直感した。少女が彼の手を引いて歩いてくる。無邪気な少女とは対照的に、中年男性の方は突然の来客を疑る目つきである。
「あのう、ガネシオアル・バハール卿……ですよね」
目の前にいる男にそうと知ってながら聞いてみる。彼は首を一つ縦に振って言う。
「無論だ。君は見たところ旅人のようだが、私に何か」
「旅の途中、あなたの名前を聞いていたので、立ち寄りました」
 嘘である。まさかこれだけで自分を信じてくれるとは思えない。どうにかして相手を安心させなければ、と彼は考えていた。しかし相手の返事は意外な言葉だった。
「そうでしたか。これは失礼。どうぞ屋敷の中へ」
 まずいと彼は思った。全てゾシュから聞いた通りなら、この悪名高い男は外に対して疑心暗鬼になっている筈だ。暗殺者かもしれない人間を屋敷に入れる度胸があるのは、何か秘めたものがある証拠だ。ここで少しでも妙な動きを見せれば、確実に何らかの方法で消されるだろう。高い壁のためここから逃げ出す事はできない。だとすると門番の警備が緩かったのは、立派な罠だったといえる。アースはそれにかかってしまったのだ。
 アースは諦めた。おとなしくしていれば命くらいは見逃してくれるかもしれない。無理をせずにただの冒険者として振る舞うことにした。
 そんな事が頭の中で交錯していたので、少女が悲しそうに俯いている事に気が付かなかった。どうやらアースの手の中ですっかり形を変えてしまった花を見ての事らしい。
「あ、ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ」
慌てて繕うアースの情けない顔を見て、少女は少し笑顔を取り戻した。
「その子には、音が聴こえないのだよ」
ガネシオアル卿はそう言って屋敷の中へ入っていった。
 屋敷の中もやはり豪華で、アースは天井の高い客間に通された。テーブルの向こうのソファーにガネシオアル卿が座る。少女は別の部屋に行ってしまった。
「セリアルは生まれた時から耳が不自由でしてね。そのため人馴れはあまりしないのですが、あの子に好かれるとは、あなたは珍しい人だ」
「それはどうも……。アース・リディアスといいます」
 そう言っていると、少女・・セリアルが小さな首の長い花瓶を持って二人のいる客間に入ってきた。空の花瓶を両手に持ったまま、アースを見つめている。彼はすぐにその意味に気付き、彼女がくれた花を花瓶にさす。それをテーブルに置き、セリアルはガネシオアル卿の隣のソファーに座った。
「魔法も万能ではないのでしょうな。もとから聴こえない耳は治しようがない、と、どの魔法使いにも言われましたよ」
メイドが紅茶を運んできた。その香りを楽しんだ後、彼はそのように言った。アースも手元のカップを取ってみる。高級な物なのだろう。今朝の酒とは味わいが違う。それで思いだした。今朝、アースは今のガネシオアル卿と同じ事を考えていた。死に逝く者たちを救えるのは神の使いか魔法使いか、医者か旅人か、と。
「医者には頼んでみたんですか」
その問いにガネシオアル卿はすぐに応えた。
「ああ。しかし、義手や義足を付けるのとは訳が違う。そこらの医者の持つ技術では耳を治すのは無理なようでしてね。それにどれだけ大きな街の医者でも、手術の成功率はとても低い。失敗したときの後遺症を考えると、分の悪い賭ですよ」
「そうですか……」
 ティーカップの温もりを両手に感じている。ほのかに香る波うつ紅色の鏡がアースの顔を映して消してを繰り返していた。顔を上げると、セリアルも同じ様にカップの中を覗き込んでいる。セリアルは今の会話の内容を理解しているのかもしれない。揺れる紅色を見つめる彼女を見てアースはそう思った。カップを見つめるセリアルと、それを見つめるアース。二人が白けている事にガネシオアル卿は笑って言った。
「私の稼ぎは全て医学に投資しています。いつかはそれが実り、セリアルも音を手に入れ怪我や病気で死ぬ人もいなくなるでしょう。さあアースさん。あなたの冒険談を聞かせて下さい」
 三日が過ぎた。ガネシオアル卿はアースに部屋を貸し、三食の食事をつけた。屋敷の出入りを認め、剣も返してくれた。三日間アースはずっとガネシオアル卿に自分の旅の話等をし、セリアルの遊びの相手をしていたのだが、当初の目的を忘れた訳ではなかった。このガネシオアル邸に短い間に傭兵達が集まってきた。裏庭に二台の大きな馬車が停めてあるのも確認した。ゾシュの言った通り、逃亡計画は確かにあるようだ。セリアルが花畑に行っている間、庭園の木漏れ日の下でアースはそんな事を考えていた。
 すると屋敷の中からメイドが出てきた。普段と違い、まだ昼だというのに私服を着ていて、両手に荷物を持っている。彼女はアースに御主人様がお呼びになられています、と言ってそのまま門の外に出ていってしまった。アースにこの一言を告げるのが最後の仕事だったのだろう。アースはすぐに屋敷の中の客間に向かった。セリアルもそれを察して、去っていくメイドを気にはしながらも屋敷の中へとついてきた。
 すでにガネシオアル卿は座っていた。セリアルはその隣に、アースはその向かいに席をとった。彼は今日はお茶はでないよと言って少し笑みを浮かべると、こう続けた。
「アースさん。まだ言っていなかったと思いますが、私達は今日の晩にはこの屋敷を出る事になっているのです。なに、出ると言っても、このデューラッツォから隣にある街に行くだけなので大した事ではありませんがね」
やはり計画は生きていたようだ。後は屋敷を出て今日の晩という事をゾシュに伝え、この人に切りかかればいい。それで今回のアースの仕事は終わりだ。
「そうですか。そろそろお邪魔しなければいけませんね」
「そこで突然ですが、手も空いている様なので、アースさんにも私達の馬車の護衛を頼みたいのです。それほど大変な事ではありません。何もなければ、ただ一晩馬車に揺られるだけの仕事です。無論お金も払わせていただきます」
表情にでない程度だが、アースは少なからず動揺した。
「すぐに決めなければ……いけませんよね」
「お願いします」
 ガネシオアル卿は首を前に傾け、客間から出ていった。それを確認してため息をつく。まずい事になったものだ。相反した二つの仕事の掛け持ちである。普通なら先の依頼を優先するべきだろう。ゾシュに言われた通りにすれば、多くの命が救われるのだろう。この傾きかけた街も英雄に守られるだけの街に戻るのかもしれないし、自分も革命の功労者として名を残す事になるかもしれない。しかし、このガネシオアル邸で過ごしてみて、彼に対して暗殺しなければならないだけの悪い印象を受けなかった。それどころか善人の様に見えた。彼が悪政の限りを尽くしている事さえ嘘のように思えてくる。これは自分が政治の影響を受けない旅人ゆえの、楽観的な考えなのだろうか。一人の犠牲者を出して、この街を救うべきなのだろうか。それがこの街の欲する結果なのだろうか。
 向かいのセリアルは、いつのまにか可愛らしい寝息をたてて眠りについていた。
 結局アースはジレンマを胸に秘めたまま、今馬車の中にいる。ガネシオアル卿とセリアルと数名の従者、それにアースと他の傭兵達を乗せた二台の馬車は日が沈む前に屋敷を出た。何事もなく街を通り抜け、野原を走る街道を通り、丘を越える頃にはもう真っ暗な闇に青白い月が浮かび、瞳を潤す星が輝く夜中になった。窓から外を見ると、革鎧を身に付けた傭兵が馬に乗って馬車に平行して駆けている。アースは前後二台の馬車のうち、前の方を護衛する事になった。ガネシオアル卿は後方の馬車に乗っており、多くの護衛をつけている。アースの守る馬車にはセリアルと召使いと貴重品一式が積まれている。
 外より暗い車の中では、アース以外の者は眠ってしまった様だ。ポケットの中を探るとそこから一枚の紙片を取り出した。四つ折りにされたそれを広げ、月明かりを頼りにそれを目でなぞる。それにはこれから実行される奇襲の計画が記されている。デューラッツォ街と隣の街をつなぐ街道は、野を越え丘を越え、また野を越えて林を過ぎた所で終わる。奇襲は街の手前、林の中で行われる。馬車が革命団の待ち伏せている地点に来た瞬間にゾシュ本人が魔法を起こして一撃を食らわせ、それを合図に全員で取り囲む。なるほど確かな計画だ。立場が違えばアースでも同じような計画を立てるだろう。そんな事を考えているうちにガネシオアル卿の二台の馬車は、もうその計画の場所に入り込んでいた。
 林は不気味に静まり返っていた。夜の林など元々気味のいい場所ではない。しかし普段より一層不快に感じるのは、すぐに戦いが始まる事を彼が知っているからに他ならない。外を見ると、前と変わらぬ様子で傭兵達は馬を走らせている。どうやらまだ伏兵に気付いていない様だ。もし馬車を止めさせるなら、今しかない。アースはそう思っていた。
 二台の馬車の後方から右前方を狙って、赤い軌道が大きなアーチを描いてゆく。それが地面に到達した瞬間、強烈な光と衝撃とが発生した。爆発は辺りに炎を散らし、後方の馬車を横転させた。アースはその有り様を見、すぐに馬車を止めさせた。セリアルも召使達も目を覚まして動揺しだす。外を見ると、すでに林からは幾つもの人影が現れ、馬車をとり囲もうとしている。アースは窓のカーテンを閉めた。
「ここから動くな。窓を開けるのも、カーテンに触るのも駄目だ」
アースは剣を腰に下げ、弓と矢筒を手に取った。外に出ようとドアノブを握ると、暗がりの中に心配そうなセリアルの顔が浮かぶ。まだ幼い彼女を不安にさせたくはない。アースはにっこり笑ってみせ、彼女の頭を撫でた。すると彼女の表情もいくらか良くなった。
 外ではそこかしこで戦いが始まっていた。先の爆発が木々に火をつけたらしく、暗かった夜道は邪な炎に照らしだされている。熱風に顔をしかめたアースの耳には木の焼ける音と金属の打ち合う音が響く。倒された木によって道が塞がっているらしく、馬車は進むことが出来ない。この状況の下、アースはどちらに加勢しようか一瞬考えた。が、自分は今革命団のゲリラに包囲されている。このままでは自分がどのような立場であっても一緒に殺されることは避けられないだろう。仕事がどうこうという暇は無かった。幸いにも近くにゲリラはいない。アースは弓に矢をつがえると、林から現れる敵に狙いを定めた。
 相手が民衆を救おうとする者だという事は重々承知だ。が、アースにとってより大切なのは、相手の命ではなく自分の命だ。彼が放った矢は闇を裂いて直進し、ゲリラ兵の股をかすめた。途端にその体が崩れ落ちる。即効性の麻痺毒を仕込んだ特殊な矢だ。かすめただけなら倒れるだけだが、相手は動けなくなり、ほおっておけば出血多量で死ぬだろう。
 五、六本の矢を放ち、アースは横転した後ろの馬車に向かって駆けだした。ガネシオアル卿の安否を確認しなければと思ったのだ。大勢の者が剣を交える音の中そこへたどり着くと、すぐに車の上に飛び乗ってドアをこじ開けた。中ではガネシオアル卿が一人ランプを持って座っている。割れた窓ガラスの破片をかぶってはいるが、どうやら無事な様だ。それを確かめると、アースは再び戦うために外に出ようとした。すると、彼の声とともにランプの光が揺れる。
「アースさん、待って下さい」
「何ですか、こんな時に」
「もう一つ頼みたい事が」
もう片一方の手に持っていた、金貨の入ったごわごわの革袋をアースに突き出した。
「今回と次の仕事の賃金です。アースさんにはこれからセリアルを連れて街までいってもらいたい。街には私の親族が待っています。彼等にセリアルをあずけてくれればいい」
「しかし……このままではここは危険です」
「それはあなた一人がいても変わりはしませんよ。それに、私とて英雄ガデル・バハールの血を継ぐ者。そう簡単にやられません。安心して下さって結構です」
そう言いランプを置くと、アースに一本の剣を見せた。宝石で彩られた美しい剣だ。アースは迷った。何故ならそんな剣、美しいだけの、それこそ自分を安心させる事くらいしか出来ない代物だと見て分かったからだ。だがもう迷っている暇はない。アースは頷いた。
「一つだけ聞かせてください。何故に俺をそれほど信用するのですか。俺はあなたにとって、一番怪しい人間の筈だ」
 その問いに、少し間を置いてガネシオアル卿は答えた。
「だが、あなたは私の最愛の娘が初めてなついた人間でもある。その人を父親が信じない訳にはいきません。娘が信じるなら、私も信じよう。それくらいのことしか、私は娘にしてやれないのだから」
その言葉を聞き、革袋を腰にくくり付けると、アースはもう何も考えずに外に出た。
 熱風はますます強くなっていた。馬車の上から飛び降り、前の馬車へと火の粉の中を走る。その途中、気が付いた。そこらの戦いに隠れてよく見えないが、林の闇の中に小さな殺意をもった炎が揺れている。アースは矢を取って構え、一瞬の内に狙いを定めた。
(戦闘中に、目印を立てる様なまねを)
放たれた一撃は見事に伏兵の腕を貫いた。絶叫するその男に、次の瞬間には異常な間の短さでもう一撃が襲いかかる。二本目の矢を首に受け、血しぶきを吹き上げながら反動でそのまま後ろへと倒れ、彼の体は森の暗がりに消えた。
 馬車のドアを開くと、すぐ目の前にセリアルがいた。その腕を掴んで馬車から出し、ドアを閉める。近くに傭兵が乗り捨てた馬があったので、それを借りる事にした。彼女を先に上に乗せ、自分もその馬にとび乗る。よくしなる弓で尻を叩くと、馬は勢いよく走り出した。大きな跳躍で道を塞ぐ木を飛び越え、後ろから飛んできて体をかすめるほどに近くを突き抜ける矢もそのままに、街道を真っすぐに進んでいく。

 もう半分以上の傭兵が倒れた。残りも戦意を無くし、一方的な戦いになってきている。ガネシオアル卿は闇の中、立ち上がって剣を車の隅に放った。体にかかったガラスの破片をはたいて落とすと、なかに鋭いものがあったのか、指の付け根の皮が薄く切れて血がにじんだ。壁をよじ登りドアを開けて外に出る。街道の先を見てそろそろかと呟くと、逞しい声で叫んだ。
「戦いを止めろ。ガネシオアル・バハールはここにいる」
 鶴の一声だった。傭兵も革命団も、動きを止めた。炎だけが音を立てている。林の中から一人の男が現れた。背の高い、細顎の魔法使いだ。最初に火の玉の魔法を使ったのはこいつで、恐らく、アースのメモにあったゾシュとかいう男だろう。彼はガネシオアル卿の立っている車の前まで歩み出てきた。
「ガネシオアル・バハール。デューラッツォ街のため、貴様には死んでもらう」
魔法の力をみなぎらせる魔法使いを前に、ガネシオアル卿は恐れもせずに言い返す。
「それなら、ここよりそのデューラッツォ街の方がよかろう。市民革命に公開処刑は付き物だし、暗殺などよりもその方が貴様らも嬉しかろうしな」
ガネシオアル卿は馬車の上から地面に降り、そして笑みを浮かべて言った。
「ちゃんと街まで送ってくれよ。夜盗にでも襲われたりしたら、かなわんからな」
 数日後、デューラッツォ街の貴族の殆どがギロチン台に上げられ市民革命は成就した。新しく生まれ変わったデューラッツォ市の市長は、市民革命の立役者、名前はゾシュ。

 二人を乗せた馬は林を抜けた。もう追手はいない。日が昇ろうとしているのか、山の淵は紫に輝いている。セリアルは、アースの腕の中で初めて乗る馬に緊張しながら、しかし確たる表情でずっと先まで続く道を見つめている。街はきっともうすぐそこだ。