LM314V21

アニメや特撮やゲームやフィギュアの他、いしじまえいわの日記など関する気ままなブログです。

『鬼滅』や『エヴァ』の主人公が子供である理由の所感(子供はマイノリティだという話)。

掲題の通り『鬼滅』や『エヴァ』など、アニメや漫画の主人公がしばしば子供である理由についての個人的な考えのまとめです。

 

一番の理由はやはりメインの受け手である子供が共感し作品に没入しやすいのが子供主人公だから、でしょう。

 

北斗の拳』や『シティーハンター』のように主人公が大人である場合は「こういう大人になりたい」「こうありたい」という憧れの気持ちを喚起するのが作品の軸になります。だから彼らは強くてカッコイイわけで、情けない大人が主人公という作品は稀です。

ただ、この種の作品は最近はあまり流行らないようです。情報化によってカッコイイ大人の存在が、ある意味で殺人拳の使い手や殺し屋の存在以上にファンタジー的に思えてしまうからかもしれません。

 

憧れタイプと同じく作品の訴求力になるのが共感タイプの主人公です。シンジくんも炭治郎もこっちです。彼らが悩み苦しむ姿に、受け手である子供たちは意識するにせよしないにせよ感情移入し引き寄せられてしまうんですね(なお、『エヴァ』と『鬼滅』とでは発表された時期が20年も違うので同列に語ることには危うさもあるのですが、その辺は今回は割愛します)。そして共感を訴求するのであれば主人公の年齢も受け手に近い方がいいわけです。

 

多くのアニメや漫画が、上述の憧れタイプか共感タイプかに分類できると思われます。なお、大人が主人公でかつ共感が非常に困難なタイプの『マクロス7』みたいな作品は例外なので今回は黙殺してください(※名作です)。

 

で、ここで別の観点での議論が立ち上がります。たとえば

 

「子供以外にも受け手はたくさんいるからそこに向けなくていいのでは?」

「子供が残酷な目に遭う作品を大人が出すことで肯定していいのか?」

 

みたいなやつです。以下、それらについて考えてみます。

 

  • 「子供以外にも受け手はたくさんいるからそこに向けなくていいのでは?」

 『エヴァ』は元々夕方放送のアニメ番組ですし『鬼滅』は少年誌連載の漫画です。どちらも出どころが子供向けの専門メディアなのですから、作品自体も子供向けなのは当り前です。「いやいや最近は大人も漫画やアニメを見るでしょ」と思われる方もいるかもしれませんが、じゃあ今ジャンプ編集部に「この作品は大人向けです」でネームが通るか? という話です。まず通りません。そんなに甘くはありません。

エヴァ』の場合も、放送当時は子供(ティーンエイジャー)向け訴求する(ように見える)企画だから夕方の放送帯を取れたのでしょう。当時のTVアニメの企画ではそれが前提でした。大人にもヒットしたのは結果論です。

新劇場版シリーズについては映画ですので子供向けである必要も主人公が子供である必要も本来ありませんが、じゃあシリーズに慣れ親しんだ大人のファンたちが「今回は映画なので大人を主人公に替えます」と言われて納得するか? と言われると、なぜわざわざ替えたの? という話になるでしょう。メリットが見いだせません。また主人公を大人にすることにより共感を引き出せるかというとそういうわけでもありません(理由は後述します)。

 

なお、現在のアニメシーンであれば放送帯が深夜が中心なので子供を主人公にする必要は以前に比べれば希薄です。90年代に比べれば大人が主人公のアニメも比較的多いのではないでしょうか?

ただ、先に述べた通り現在は「憧れ」より「共感」の方が訴求力が強いので、その面でも大人よりも子供を主人公にする方が妥当性が高い場合が多いでしょう。何故なら人は大人になるにしたがって個々人が得る経験が多様化していきますので、人生経験が少ない少年期の子供を主人公とした方が、誰もが共感する人物を描きやすいからです。

もうちょっと分かりやすく言うと、たとえば日本では多くの人が中学や高校に通うまたは通った経験があるので、高校生や中学生の主人公は多くの子供にも大人にも共感しやすいと考えられます。大学生とか社会人になると子供には想像し難く、大人でも「俺はそういう経験ないなあ」というケースが増えてしまい、共感を描きにくいのです。このたとえは所属に関するものですが、他にも少年期や思春期に考えそうなこと――大人や社会への不満であったり家族との軋轢だったり恋の悩みであったり――なども同様です。誰もが通る道だからこそ共感しやすいのです。

もちろん、共感以外の部分が作品の軸であれば大人主人公でも全然問題ないのですが、その軸を取るために共感による訴求という大きなメリットをわざわざ捨てる必要があるのか? という話になります。先に挙げた『マクロス7』なんかは明確に作品の軸のために主人公の共感要素を廃しています(特に序盤)。

 

  • 「子供が残酷な目に遭う作品を大人が出すことで肯定していいのか?」

こっちは倫理的な話です。こういうことを言う人が見落としているのは、主な受け手たる子供にとって『エヴァ』や『鬼滅』の残酷な設定はリアルであり共感しやすいのだということです。

「エイリアンや鬼と命懸けで戦わされることがリアルか?」という人は、子供たちが日々命懸けで生きていることを幸運なことに知らないか、もしくは忘れているのだと思われます。

 

子供から見た世界は残酷です。暴力も暴言もあけすけないじめも日常茶飯事だし、大人はそれに真摯に向き合いません(以下、具体的なことを一度つらつらと書いたのですが、滅入ったので割愛しました。気になる方は日々のニュースを見てください)。子供を戦闘に駆り出すネルフや鬼殺隊は異常者の集まりのようにも思えますし実際作中で自己言及されていたりもしますが、現実だって相当異常です。「生きるか死ぬかの状況」「子供を残酷な目に遭わせる大人」という存在は子供にとってリアルで共感できるのです。

また、子供はそういった異常性に対してあまりに無力です。マジョリティに属する大人は仕事が嫌なら辞めることができますし、再就職もできます。コミュニティも自分で選べますし、お金の使い方も自由です。選挙に参加でき、結婚も自分の意志でできます。

子供はそれがらできないか、大人に比べて選択の幅が非常に狭く、相対的に不自由です。シンジくんや炭治郎は子供で自由がないからこそ、見る子供にとってリアリティがあるのです。

この辺りのことは、子供は社会的マイノリティ(弱者)であるという認識が無い人にはピンと来ないかもしれません。また本題からは離れますが、子供でなく大人であってもマイノリティに属する人にとっても、過酷な設定は同じ理由で共感を得やすいでしょう。

 

『鬼滅』も『エヴァ』も子供たちが悲惨な目に遭いますが、別に子供たちが悲惨な目に遭うのが面白いからではなく、実際にひどい目に遭ってるからそれを抽象的に使徒や鬼との戦闘という形で表現しているにすぎません。

また、子どもの虐待を作品テーマとして肯定しているわけでもなく、主題はそういった状況に主人公たちが何を考えどう立ち向かうのか? という点の方です。実際に作り手が何を考えていたのかは私には知る術はなく、無意識に関わることなら本人にも分からないかもしれませんが、少なくとも『鬼滅』や『エヴァ』がヒットした要因の一つは、過酷な設定だからこそ共感できることだと思います。そしてそれは子供を危険な現実に巻き込むことではなく、実際現実を命懸けで生きている子供たちに寄り添い励ますことです。

 

 

なお、当然ですが暴力的な作品が無くなれば現実から暴力が無くなるわけではありません。逆に『鬼滅』や『エヴァ』を発端とした暴力やいじめに遭う人もいるでしょう。私は実際『鬼滅』で生物学的に殺された人を知っています。ですが、それより両作品に勇気付けられ生きていく糧になったという人の方が多いものと思われます。

『鬼滅』や『エヴァ』が倫理的に真っ白だとは思いませんが、多くの人に影響を与える作品は真っ白じゃないからこそ成立するのだと私は思います。

「こんなことあってはならない」「こうあるべきだ」一辺倒ではマイノリティに寄りそう作品は作れません。そして倫理的に正しくない要素を含む作品も発表でき、見ることができる環境こそが健全だと言えるのではないでしょうか。

 

 (おわりです)

 

鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 
北斗の拳

北斗の拳

  • 発売日: 2015/08/01
  • メディア: Prime Video
 
劇場版シティーハンター <新宿プライベート・アイズ>