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『さよなら絵梨』思ったことのメモと感想。

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漫画アプリ「ジャンプ+」で話題の漫画『さよなら絵梨』を読みました。お話のギミックとして気付いたことがいくつかあったのでそれをメモしようと思います。2度ほど読んだだけで気付いていないことや誤読があるかもですがご了承ください。

また、完全ネタバレ前提なので、ネタバレOKな方のみ先にお進みください。上記リンクから無料で読めますので(2022年4月12日現在)、気になる方は実際に漫画を読んでもらった方がいいかもです。

 

それではレッツゴー。

 

 

以下、まずは思ったことパートです。

 

・主人公の優太は12歳の誕生日から母の映像を撮っており、それを高1の文化祭で映画「デッドエクスプローションマザー」として発表した。

→撮影期間が結構長い。中学時代をすべて使っている。

 

・母親にドキュメンタリー撮影を強いられており、その反抗として爆発オチにした。

→消せと言われていた猫の動画を映画に盛り込んでいるところなどからも母の意に沿いたくないという意識がある。

 

・一方、映画化された母の印象はすこぶるよいものであり「偶像化された自分を映像に残したい」という母の意向を優太は叶えている。もし反抗100%なら毒親ドキュメンタリー映画にした方がよかったはず。

→主人公の中には、ドキュメンタリーで事実を描かないことを自分に強いる母への反抗心と母の願いをかなえ綺麗な母の姿を残したいという思慕の心、両方があった。

 

・絵梨は主人公の映画で「泣いた」と言っている。その理由は後述される。

 

・作中の絵梨は主人公男子をグイグイ引っ張り、死のうと思っていた主人公に生きる活力を与える。あと映画を撮ることも含めて涼宮ハルヒっぽいなと思った(藤本タツキさんのアマチュア時代のペンネームは「長門は俺」)。

 

・絵梨の「戦いに勝った後に小さくピースする癖」は伏線、主人公が映画公開後に回収。

 

・仮にこれがスマホで録った映像だと考えるとちょっとわざとらしいなと思えるコマ運びあり(「(映画に)惚れてる」と言われたところで自分の顔をリアクションとして映しているところなど)。

→映画だったという伏線。

 

・絵梨は主人公の映画を「自分の死ぬところを中学生の息子に撮らせるなんて残酷、だから優太が逃げてスッとした」「母親を綺麗に録っていた」と評する。

→絵梨は主人公の真意を概ね理解してくれていた。ただし、実際には普通に優太から母の話を聞いていたのかもしれない。

 

・主人公は新作を「吸血鬼=絵梨が死ぬまでを撮る映画にしたい」と提案。絵梨はここで熟考の後「面白くなりそう」と回答。

→この絵梨の反応が事実だったとしたら①たまたま優太が絵梨の身の上を言い当ててしまっておりそれに絵梨が同調した、ということになる。しかし実際の絵梨は眼鏡&歯の矯正をしているはずなのでこれは映画としての設定で、実際には②優太と絵梨との合議の上で、もしくは絵梨の提案で母の時と同じく絵梨が死ぬまでを撮る物語になった、と考えるのが自然(シナリオの決定権は絵梨が握っていたのだから)。

→その場合、絵梨は優太に彼の母と同じことを強いていたことになる。そして、実際には絵梨が強いていたのに映画では優太が言い出したことになっている、という可能性がある(「自己中だし中々嫌な女」という友人評は彼の母にも重なる)。

つまり、優太にとっては絵梨パートも半分本意、本文不本意だった可能性あり。

 

・絵梨の「あの映画を見ればお母さんに会える」というセリフも伏線。

 

・「そのスマホお母さんのお金で買ったんだよ?」

→本当は誕生日プレゼントではなかった可能性(誕生日プレゼントも母の金で買ったのかもしれないけど)。

 

・優太は妻子をもうけてからも絵梨の動画編集を継続

→絵梨との関係になにがしかの未練があったから。

 

・廃墟の中で首を吊ろうとするが、急に映写機が作動し絵梨が登場。映画も何故か都合よく途中の高1の自分が死のうとするところから。

 

・絵梨との再会でスマホを落とす。ここ以降は観念的なシーンになるが、おおよそ主人公の妄想だと考えると辻褄が合う。

→絵梨の設定(生き返ったり手紙で記憶を継続させてたり脳がハードディスクみたいだから云々)は主人公の考えた設定。主人公は映画視聴やプロット作成を何回もしているので「映画みたいな話」を考えられるし、実際主人公自身がそう言っている。

→先の絵梨の「あの映画を見ればお母さんに会える」というセリフから察するに、絵梨とたくさん映画を見た場所に来たことで、もしくはそこで(実際には)自分で映写機で自分の映画を見直したことで、絵梨のことを思い出している。

→「周りの人が死んでいくことに絶望しないのか?」「映画を見れば大丈夫」は自問自答。

→主人公が絵梨の元を去った理由は、そもそもそこに絵梨が存在しなかったから。

→作中の絵梨の姿は全て実際の絵梨と主人公との二人で築いた偶像の絵梨。映画の中の母と同じ。最後に出てきた絵梨も偶像のまま。つまり主人公は現実の絵梨の死後、ずっと彼女の偶像に捕われており、だから映画の編集がいつまでも止められなかった。

→優太は母に対してと同じで、理想の自分を映画に撮らせた絵梨に仄かな反感を抱きつつ、美しい姿を残したいとも思っていた。

 

・爆発オチの意味

→母の時と同じで、自分の理想の姿を撮らせることを強いた絵梨への反発と、実態を踏まえた上での区切りとして、一番優太らしい表現は爆発オチ(=ファンタジーをひとつまみ)という意図。

→爆発は心象風景。というか首を釣ろうとしたあたりから全部心象風景。

→「実は全編後年編集した映画でした」「爆発はその時に加えたエフェクト」と理解してもいいが、その場合最後の絵梨との会話シーンはCG?ということになる。絵梨が元気なうちに撮っていた&大人になった優太は父が演じていたと考えてもいいが、そう考えると実際の絵梨が死んでいる必然性も無く物語全部が創作でしたということになり、主人公の本意は作中どこにも描かれていないのと同義になる。メタオチ、夢オチと変わらない(そう理解してもいいが)。

→爆発オチは主人公にとって死や理不尽さを乗り越えるための自分らしい表現(母や絵梨の映画は彼女らに強いられていたが爆発オチは誰にも強いられていない)。家族の死や偶像の絵梨にとらわれていた半生を乗り越えた、ということを高1以来の爆発オチで表現している。

→乗り越えたので「さよなら絵梨」というタイトルになっている。

 

 

以上、思ったことパートでした。以下は感想パートです。

 

・お話のギミックは面白いと思った。絵梨が優太にとって100%理想的な少女というわけではなかったところなど。

・「どこからどこまでが現実?」という自由な読み方もできるが、仕切りようによっては上述の通り夢オチとほぼ同義になってしまうので、ある程度妥当な読み方は実際には結構限られているように感じた。

・爆発オチは、物語にひっかかりを感じなかった人にとっては「笑わそうとしてんのか」「クソ映画再現か」ととられかねないので、人を選ぶ表現だったと思う(というか作者が率先して人を選ぼうとしている気配があるし、そういった態度にこそファンがつくのだろう)。

・ギミックを解いた後の物語は割とストレートな造りなので、どこかしら優太に共感できる人にとっては素晴らしい作品になると思う。

・個人的には、妻子の描写が少なすぎたために身近な人の死を克服する主人公への感情移入はしにくかった。妻子も映像少しは撮っとけよ、少しはこだわれよ、という気持ち。

・一方で、オッサンになってから思春期の少女の偶像から脱却するというテーマはちょっとだけ共感できた。でも物語の主軸に据えられている人の死とは関係ない部分なので、あくまで枝葉の部分に共感した形だと思う。

 

・余談だけど、本作のモチーフの1つは『ぼくのエリ 200歳の少女』という洋画だと思う。メインキャラの名前と吸血鬼というモチーフに類似性あり。200ページという形にしたのが「200歳」からもってきたものだとするとかなりドンピシャに思われる。ただしテーマに対する回答は異なる。

・そして『ぼくのエリ 200歳の少女』という邦題はかなり問題含みで、映画ファンからは概ね不評。気になる方はぜひ調べてみてください(私は本邦における自主規制の調べ物をしていてこの作品を知りました)。何故わざわざこのいわくつきのタイトルに絡めたのかは気になります(意図したものだとすれば)。

 

(おわりです)

 

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