LM314V21

アニメや特撮やゲームやフィギュアの他、いしじまえいわの日記など関する気ままなブログです。

オタクの仮想敵。

 オタクの敵は誰か? などと、上の記事に関連して思ったことを徒然なるままに書いてみたいと思います。
 そもそも岡田氏がわざわざオタキングを自称しオタクという概念を彼流の意味を付与して流布させたのは、仮想敵に対する宣戦布告という意味合いが大きかったみたいです。その当時のオタクの敵とは「世間」という体制でした。
 宮崎事件での事実の捏造や事件に乗じた某ライターの存在によるネガティブキャンペーンによって、当時のオタクは今では考えられないような激しい弾圧を受けました。そこで氏は「オタク=エリート」という図式を打ち出しオタク公民権運動に乗り出したのでした。この当時オタクを社会に受け入れてもらうためには「世間」という大きな大きな敵を相手にパフォーマンスする必要があったのでした。
 今でこそ「氏のような人がオタク=人とは違う特殊な人というレッテルを作り出し、オタクを自閉的な存在にしてしまった」という意見もあります。が、それは今そのレッテルが必要なくなりむしろ邪魔になってきたからこそ言えることで、当時はそうとでも言っていないと存在自体が許されないような状態だったのです。ですから氏の戦略や仮想的の設定はベストだったとは言わないまでも、当時の時勢を考えれば妥当だったのではないか、と私は思います。
 閑話休題
 で、結果として現在漫画をはじめ萌え、メイド、食玩、フィギュアなどのワードがマスメディアでも散見されるくらいにオタク文化は一般化しました。今人様の前で「私はガンダム(仮面ライダーでもいい)が好きです」と言って得られる反応は15年前のそれと比べるとずいぶん好意的なものになっています。それを考えればオタキングは敵に勝ったと言えます。もう倒すべき敵はいないはずなのに、何故氏は壇上で泣かなければならなかったのでしょう?
 それは簡単な話で、新たな敵が現れたからです。それはコマーシャリズム(商業主義)です。これがただの敵であれば氏は90年代初頭のように立ち上がればいいだけのことです。氏が泣かざるを得なかったのは、今回の戦いに勝ち筋が見当たらない…つまり負けが見えていたからではないでしょうか。氏は現在プチクリというポジティブな概念を打ち出して再度戦おうとしています。しかしそれはせいぜい局地戦的な作戦であり、大局においての勝利はおそらくないでしょう。先ほど新しい敵と書きましたが、実際にはオタク文化とコマーシャリズムとは不可分のものであり付き合いは長いのです。だから氏には今度の敵がどれだけ強力かよく分かっているのです。
 世間とか体制を敵に回して勝利を収めたオタキングが敵わないと泣かざるを得ない相手・コマーシャリズム。オタク諸氏はそれほど大きな敵と対峙しているのだということを肝に銘じておいていいと思います。負け戦の後には何もない荒野が残るだけですよ。


 ちなみに近年主にネット上で信頼をガタ落ちにさせているジャーナリズムですが、たとえば今彼らが直面している強敵もまた同じコマーシャリズムです。政府とか体制の悪を暴いていればよかった素朴な時代は終わり、ジャーナリストもスポンサーや視聴率との間で四苦八苦していかないといけないのが現状です。スポンサーの言いなりになっていては真実のジャーナリズムを達成することなどできず、結果として我々のよく知ってるグダグダな自称「ジャーナリズム宣言」になってしまうわけです*1
 ですから、オタクもジャーナリズムも今抱えている問題は同じだというのが私の見解です。ネット上では○○住人(2ちゃんねるでもふたばでもいい)がジャーナリズムのダメさ加減を露呈した記事を取り上げてせせら笑っていたりしますが、自分たちも同じ敵を相手に屈しようとしていることに気付いていない様子を見て暗澹たる気持ちになったりします。
 他にも文学界なども同じような問題を抱えているように見受けられます。足を引っ張り合うのではなく、お互いの経験や状況を共有し、いっしょに強敵への対策を講じないといけない、と私は思います。

*1:まあ朝日に関しては他にも問題があるように思われますが。