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アニメや特撮やゲームやフィギュアの他、いしじまえいわの日記など関する気ままなブログです。

京都アニメ―ションの動画マン・石田敦志さんについての会見ログ(産経ニュース記事全文)。

2019年7月18日に京都アニメーションで起きた放火殺人で亡くなった動画マンの石田敦志さんのお父様が、同年8月27日に記者会見を行いました。石田敦志さんが生きた証を残したいという思いで、お辛い中記者会見に臨まれたということです。

 

石田敦志さんのお父様の会見に感銘を受けたので、少しでも先の未来の人にも石田敦志さんのことを知ってもらえるよう、ここに記者会見の記事全文をコピーして残しておきたいと思います。

 

~~~

記事本文の前に、なぜ産経新聞のサイトの記事全文をコピーするのかについて書いておきます。それは、ニュースメディアの記事はずっと残っているという保証がないからです。

 

たとえば、今、産経新聞で「同時多発テロ」で検索すると1606件ヒットし、検索結果の最終ページ最下段に表示されるのは2015年11月27日の下記の記事になっています。

www.sankei.com

 

一応画像でも残しておきます。

f:id:ishijimaeiwa:20190830105049p:plain

 

同じく朝日新聞のサイトの場合では1479件ヒットし、最終ページ最下段の記事は2014年9月2日のこちらです。

www.asahi.com

 

f:id:ishijimaeiwa:20190830104648p:plain

産経新聞のサイトは1000件以上の検索結果は表示されないそうなので、検索結果にでないだけでサイト内のどこかには他の記事がもう600件くらいは残っているはずです。ただし、どちらの場合も2001年にアメリカで起きた同時多発テロの当時の記事にすら到達できないのです。

これは、新聞社のサイトは「新聞が主・サイト掲載はおまけ」と考えており、掲載した記事を過去のものから随時消しているためだと思われます(私が知らないだけでそうでない新聞サイトもあるのかもしれません)。これではネット上に石田敦志さんのことを永く記録し、未来の人に伝えることが出来ません。

というわけで、別途私のこのブログに全文をコピーしておくことにしたのでした。

もちろんこのブログも未来永劫あるわけでは全然ありませんが、一応2005年から残っているサイトではあるので、これでも新聞社のサイトよりは情報が残る信頼性において若干マシです。他のもっと信頼できるサイトさんが残してくださるのでしたら、どうぞ宜しくお願いいたします。

 

なお全文コピーは著作権法違反ですので、著作権者である石田基志さん(石田敦志さんのお父様)からご指摘があった場合は速やかに記事削除します。その際はお手数ですがご一報をくださいませ。

著作権親告罪ですので、石田基志さん以外からの申し出は受け付けません。該当の記事は記者会見の書き起こしであり「記者の思想や感情が表現された著作物」ではないため、記者や産経新聞にも著作権はありません。その点ご了承ください。

~~~

 

 

《アニメ制作会社「京都アニメーション」第1スタジオで発生した放火殺人事件の犠牲者として身元が公表された石田敦志さん(31)=京都府宇治市=の父、基志(もとし)さん(66)が27日、京都府警伏見署で記者会見した。基志さんは冒頭、集まった60人以上の報道陣を前に、自らの思いを記した文章を読み上げた》

 

 本日は私どもの会見にたくさんお集まりいただき、本当にありがとうございます。うまく話せるかどうか分かりませんが、私どもの思いをお話しさせていただいた後、ご質問をお受けしたいと思います。よろしくお願いします。

 私どもの敦志は、私にとっては出来すぎた息子でありました。温厚で人と争うことが嫌いな優しい子でした。夢を追いかけ、高いハードルを何度も自力で飛び越え、夢をかなえました。そして数々のアニメ作品に参加し、私たちに多くの夢と感動を残してくれました。本当に素晴らしい子でした。

 小さいころからアニメに興味を持ち、「大きくなったらアニメの仕事がしたい」とよく言っておりました。最初は子供がプロスポーツにあこがれるようなものだと思っていましたが、次第にこれは本気だなと思うようになりました。

 けれども私の知る限りでは、アニメ業界のクリエーターは決して恵まれた環境ではないと、調べれば調べるほど不安になり、最初は反対しました。

 それでも敦志は決してあきらめず、私が与えた課題を拒否することもありませんでした。きっと親を苦しめたくなかったのでしょう。アニメの勉強と学業とを両立させ、自力で次々とクリアしていきました。

 

 そして私が与えた最後の課題が「京都アニメーション」でした。過酷な環境が多いアニメ業界において、京都アニメーションは唯一と言っていいと思いますが、クリエーターの生活保障がしっかりとしていて、クリエーターを大事にする会社だと知ったのです。もしここに入ることができれば、私も心から応援できると思いました。しかし今思えば、ずいぶん遠回りをさせてしまったと反省しています。

 こんなエピソードもございます。入社間もないころ、先輩から「アニメーターはやはり原画をめざすべきだ」というアドバイスをいただいたそうです。そのことに納得しつつも、「動画を自然に、しかも美しく動かすことにも非常に魅力を感じる」と私に言っておりました。じつに敦志らしいなと思ったものです。

 自然にしかも美しく動かす、ここにこだわった10年間であったように思います。やっと円熟期に差しかかり、これから彼に本当に磨きがかかり、本当に表現したかった「自然にしかも美しく」に磨きがかかるのを楽しみにしていたのに、31歳の志半ばで逝ってしまいました。

 この悲しみと怒りは筆舌に尽くしがたいものがあります。人生の過酷さは知っているつもりでしたが、人生にこんなにも理不尽で、悔しくて、苦しくて、悲しいことがあるとは思ってもいませんでした。胸が張り裂けそうであります。


 入社が決まり、敦志の引っ越しのとき、京都アニメーションの本社にごあいさつに行ったときの話です。

 

 社長の奥さまの八田陽子専務がわざわざ対応されて、「この業界に息子さんを送り出すのはさぞご心配でしょう。でもお父さんご安心ください。弊社で3年頑張れば、この業界どこにいっても通用する人材になることは間違いありません。そういう人材しか採用していません。どうか応援してやってください」とのことでした。

 私はそのころには既に京アニファンになっておりましたから、「素晴らしい作品を生み出した京都アニメーションで、息子がお手伝いできるのは大変光栄です」と応じると、八田専務は「そうではありません。お父さん、手伝うのではなく一緒に作るんです」と。まだ入社してもいない息子を一人前として処遇する八田専務の言葉に、大変感激したのを今でも鮮明に覚えています。

 その後、今回被害に遭った第1スタジオに案内してくださり、有名な監督たちを直接紹介していただき、感激もひとしおでした。最後に玄関口でごあいさつをと思ったときに、その壁に私が京アニ作品の素晴らしさに出会った最初の作品である「AIR」のポスターが目に入りました。私が別れのごあいさつのつもりで「こんな素晴らしい作品のお手伝いをさせていただけるなんて」と言い終わらないうちに、今度は村元(克彦)部長が「いいえ違いますお父さん、一緒に作るんです」とのことでした。その言葉でこれは単なる外交辞令ではないと感じ、ここなら大丈夫だと確信したことを昨日のことのように覚えています。

 

 京都アニメーションは、クリエーターと作品を大事にする素晴らしい会社です。このたび、たった1人の卑劣な犯罪者のために、まだまだ多くの素晴らしい作品を輩出したであろう才能と想像力にあふれた多くの人材が亡くなり、傷ついたことは、私ども遺族や、被害者家族のみならず日本の大きな損失です。なくしてはならない存在です。このような人材は決して一朝一夕にできるものではありません。残念でなりません。

 どうかみなさま、これからも敦志が愛した京都アニメーションを応援してあげてください。そして石田敦志というアニメーターが京都アニメーションに確かにいたことをどうか、どうか忘れないでください。心よりお願いいたします。

 

 《準備していた文書を読み上げた基志さん。まもなく質疑に移った》 

 

 

 --お子さまを亡くされてとてもつらい思いをされている中、このような会見の場を設けていただき各社を代表してお礼申し上げます。敦志さんはお父さまにとってどのような存在でしたか。一番忘れられないエピソードを教えていただけないでしょうか

 

 「敦志は私ども家族にとって唯一の男の子でした。それも末っ子でしたので、同性の男親の私としては、彼が家内のおなかに入って、男の子だということを告げられたときから本当に有頂天でした」

 「敦志は人と争うことがものすごく嫌いで、実は私と正反対でした。敦志は人と争う、競うことが非常に嫌いな人間でした。かといってスポーツをやらないということではない。スポーツは人並み以上で、サッカーも水泳も全てやれたんです。ただ、体育会系の私としては相手に勝つ、そういう競う楽しみを好まないんだなと感じたのをよく覚えています」

 「敦志は非常に親思いでした。特に私と性格が正反対だったせいか、非常に馬が合いました。家族旅行もたくさんしましたが、私にもたくさん付き合ってくれました。私どもは福岡に住んでいますが、鹿児島の指宿に日帰りとか、ドライブではちょっと無理があるような遠出でも非常に快く付き合ってくれました。そんな優しい子でした」

 

「2010年の『けいおん!』を皮切りに、記憶しているだけでも30以上の作品に参加しているはずです。テレビ放映があれば、どこのチャンネルで何時から(放送が)あるよと。映画の作品であれば必ずチケットを送ってくれました。エンドロールに石田敦志の名前を見ることが私ども家族一同楽しみで、何度も夢と希望を与えてくれました」

 「ただ私が一番残念なのが、敦志は親孝行だけをして逝ってしまいました。私は彼には何もしてやっていません。夢の京都アニメーションに採用していただいのも全て彼の努力です。情報工学をやりながら夜間のアニメーションの専門学校にいき、両方見事に両立して、そしてこの有名な京都アニメーションに採用していただきました」

 「私が今日ここに、みなさんの前にみっともない姿をお見せできるのも、生き残った私どもが唯一皆さまに敦志のことを多く知っていただきたい、それしか私どもにはできることがありません。そういう思いで今ここに座っております」

 

 --夜間の専門学校でアニメを学ばれたというお話ですが、大学に通いながら専門学校に通われたのですか

 

 「そうです」

 

 --京都アニメーションに進むお気持ちは、敦志さんからの発案ではなくてお父上の提案でしょうか

 

 「もちろん第一希望は京都アニメーションだったと聞いていますが、やはり一人息子なので将来不安があるような進み方は止めたいという思いが強くて。アニメーション関係の会社が一体どういう環境なのかということを私なりに調べさせていただきました」

 

 「ある雑誌だったと思うのですが、八田ご夫妻のいわゆる企業理念を読みました。敦志が入社したのは10年前になりますので、やっとそのころにみなさんの頑張りで『けいおん!』や『AIR』が評価をされた時期なのですが、まだまだ自社制作が完全に軌道に乗っている時期ではありませんでした。だけどもクリエーターを大事にしたいという思い、それと今からの企業展開をぜひ自社完結型で、しかもクリエーターの生活保障ができる会社にしていくんだというのを見たときに、失礼ですけども他の会社とは明らかに違うなと思いました」

 「素人調べではあったのですが、かなりのハードルが高い(ことが分かりました)。質の高い作品を作っているので当然クリエーターへの注文も高い。そういう人材しか採用しない。敦志が果たしてそこまでの技量があるのか、私としては未知数でした。それで、半分は諦めてほしいという思いもあり、情報工学もやっていましたので、十分生活はできていく環境にあると私は思っていましたので、京都アニメーションに採用されるなら自分は応援するよと」

 「私なんかが若いころだとかなり反発したと思うのですが、あの子は本当に優しい子で『分かった。頑張る』と。だからもう全然もめたということはない。ただ採用通知を見たときはさすがの私も舌を巻いたと申しますか、正直びっくりしました。そのころは私なりに勉強していましたので、京都アニメーションのレベルがどこにあるかというのをある程度理解していたつもりだったので、採用通知を見たときは何度も確認しました。何か誤字があるんじゃないかと。だけども実際そういうことでした。実際に私が本社にごあいさつに行って、(八田専務らから)お話を聞いたときのあの感激は本当にこれは本物だなと思いました」

 

 --敦志さんは2009年の春に入社されて、丸10年お勤めですか

 

 「そうです。今年で10年目だったと思います」

 

 --参加された作品で、特に思い入れがおった作品のエピソードはありますか

 

 「それは何と言っても最初に石田敦志という名前が出た『けいおん!』の2作目です。初めて石田敦志という名前が出たときはさすがにうれしそうでした。ほとんどそういうことを言わない息子でしたが。これはうれしそうでした」

 

 --一緒にごらんになったのですか

 

 「いえ。テレビ放送なので、私どもは録画して見ました。敦志は時間が取れれば福岡によく帰ってきてくれていたので、その直後ですかね。ちょうど制作と制作の間に時間が取れたということで帰ってきてくれたんですね。多分それは無理やり時間をつくって、そういう自分の感激を、当然喜んでくれるであろうわれわれ家族に直接言いたかったのではないかと、後に家族で話しました」

 

 --どんなことを話されていましたか

 

 「こういうところが難しかったとか、『動画も振り向くシーンがくるっと首が回るんじゃないんですよ』と。人間の振り向く姿というのはただ物が回転するのではなくて、それが自然にきれいに見えるのは、人間の動作そのものを表現しないとできないというような、まるでベテランが言うような。多分、先輩の受け売りだったと思うんですけどね。そういうことを本当にうれしそうに言っていた。なかなかそういう表情は見せないんですね。はにかむ程度の笑顔が一番敦志の印象として残っているくらいで。ああいううれしそうな姿はなかなか見られなかったですね」

 

 

 --敦志さんは2009年の春に入社されて、丸10年お勤めですか

 

 「そうです。今年で10年目だったと思います」

 

 --参加された作品で、特に思い入れがおった作品のエピソードはありますか

 

 「それは何と言っても最初に石田敦志という名前が出た『けいおん!』の2作目です。初めて石田敦志という名前が出たときはさすがにうれしそうでした。ほとんどそういうことを言わない息子でしたが。これはうれしそうでした」

 

 --一緒にごらんになったのですか

 

 「いえ。テレビ放送なので、私どもは録画して見ました。敦志は時間が取れれば福岡によく帰ってきてくれていたので、その直後ですかね。ちょうど制作と制作の間に時間が取れたということで帰ってきてくれたんですね。多分それは無理やり時間をつくって、そういう自分の感激を、当然喜んでくれるであろうわれわれ家族に直接言いたかったのではないかと、後に家族で話しました」

 

 --どんなことを話されていましたか

 

 「こういうところが難しかったとか、『動画も振り向くシーンがくるっと首が回るんじゃないんですよ』と。人間の振り向く姿というのはただ物が回転するのではなくて、それが自然にきれいに見えるのは、人間の動作そのものを表現しないとできないというような、まるでベテランが言うような。多分、先輩の受け売りだったと思うんですけどね。そういうことを本当にうれしそうに言っていた。なかなかそういう表情は見せないんですね。はにかむ程度の笑顔が一番敦志の印象として残っているくらいで。ああいううれしそうな姿はなかなか見られなかったですね」

 

 「家に遺影を遺骨とともに飾ってありますが、それを見ても、はにかんだいつもの敦志の笑顔が、この世に今いないんだと、どうしても飲み込めない。いまだに本当なのだろうか、というのが正直な気持ちです」

 

 「なぜ遺影に、はにかんだ笑顔の写真を選んだのか。(あこがれの先輩と写り)本当に彼らしい、本当はうれしくてたまらないのに、はにかんだ笑顔なんです。あれが敦志なんです。ここで(自分が)つぶれたらだめだなという思いになったのも事実です」

 

 --事件後、同僚から敦志さんの仕事ぶりや人柄についてどのようなお話がありましたか

 

 「私どもには非常に冷静沈着な息子というイメージでしたが、職場では非常にひょうきんだったそうです。特に京都アニメーションは、みんなで(作品を)作るという意識が強いですから、それぞれの意見が飛び交うわけですね、そうすると、ややもすればギスギスした雰囲気になるらしいのですが、それを和らげてくれたのが石田くんでしたと。そういった面があったのだなと。敦志も、みなさんからかわいがっていただいていたのだなと思いました」

 

 《質疑が終わり、基志さんが最後に思いを語った》


 私の今の心情としては、こういった事実はやはり認めないといけないのだろうなと。

 

 優秀な方々と志半ばで旅立ったわけですけども、きっと来世でお仲間と再会して、皆さんとともに夢をかなえてくれるんだろうなというふうに思いたいです。

 

 それともう一点だけよろしいですか。

 

 私もこういったみっともない姿を、いい年をした男が涙ながらにお話をさせていただくのは、そんなに格好良い話だとは思っていませんが、あえてこの場に出させていただきました。

 

 京都アニメーションのクリエーターの皆さんというのは、手前みそではありませんが、選ばれた方々なのです。そして、私の息子も含めて皆、希望と誇りを持って毎日仕事をしていたんだと思います。

 

 それぞれ名前をお持ちだと思うんです、私どもの息子も石田敦志という名前を持っています。それがいわゆる35分の1で、果たして本人たちはいいのかなと。

 

 これは他の方々への批判ではないです。私の偽らざる思いから言わせていただいています。決して35分の1ではない。まだ大けがをされている方々もいらっしゃいます。みんな誇りを持って個々のクリエーターとしてちゃんと名前があって、毎日頑張っていたんですね。そういった人たちにわれわれ残った者ができることはやはり、そこでそうやって頑張ってたんだということを、多くの人に記憶していただく、覚えていただく。忘れないでください、と言うことしかできないと思うんですね。

 

 そういった思いから、かなり自分としてはしんどい時期ですが、あえてこういう場に出させていただいた。


 もう一つ、私が日頃から、言っていることがあります。人は一度は誰でも旅立たないといけないんですね。人との別れは本当に辛いものです。どういった別れであっても人との別れは辛いと思います。

 

 何が一番辛いというのは、(亡くなる)順番が違うことです。順番が違うことは最も不幸なことです。

 

 今回、理不尽な被害に遭った皆さんの個々の名前を、あの京都の伏見、宇治で頑張っていたんだ、ということを長く残してほしいんですね。

 

 私にとっても私の家族にとっても、京都というのは非常に好きな所です。京都アニメーションさんと付き合いのある前から家族旅行などでよく来ていました。

 

 敦志が京都アニメーションさんにお世話になるようになり、伏見、宇治というのは特別な所です。

 

 今は悲惨な場所になってしまったんですね。私ども家族が宇治、伏見に行けば敦志の名前が見られる慰霊碑のようなものに残していただければと願っています。

 

 (遺族には)名前を出さないでくださいという方々がたくさんいらっしゃる。その気持ちも痛いほど分かります。

 

 これは他の家族にそうしてくださいというのではありません。私ども家族は「ここは頑張りたいな」と話し合っています。われわれが頑張るんだと。いろんなバッシングがあるかもしれませんが、あえてそれはわれわれが頑張ろうと。

 

 それでも石田敦志の名前を出したい、それが私どもの一番の思いであります。

 

以上です。

加えて、以下が石田敦志さんが携わられた作品の一覧です。以下のサイトから情報をいただきました*1

w.atwiki.jp

 

けいおん!!
動画

 

■日常の0話
動画

 

■日常
動画

 

映画 けいおん!
動画

 

氷菓
動画

「氷菓」BD-BOX [Blu-ray]
 

 

たまこまーけっと
動画

 

Free!
動画

  

小鳥遊六花・改 ~劇場版 中二病でも恋がしたい!
動画

 

たまこラブストーリー
動画

 

Free! Eternal Summer
動画

 

甘城ブリリアントパーク
動画

 

響け!ユーフォニアム
動画

 

■劇場版 境界の彼方 -I'LL BE HERE- 過去篇
動画

 

■劇場版 境界の彼方 -I'LL BE HERE- 未来篇
動画

 

映画 ハイ☆スピード!Free! Starting Days
動画

 

無彩限のファントム・ワールド
動画

 

■劇場版 響け!ユーフォニアム~北宇治高校吹奏楽部へようこそ~
動画

 

映画 聲の形
動画

 

■劇場版 響け!ユーフォニアム~届けたいメロディ~
動画

 

■映画 中二病でも恋がしたい! Take On Me
動画

 

リズと青い鳥
動画

 

ご覧の通り、石田敦志さんが10年間変わらず動画を手掛けていたことが分かります。これは会見の中で説明されていたとおり、石田敦志さんが動画という仕事にやりがいを見出し、原画に移らなかったためです。

お恥ずかしながら、私は最初にこの経歴を見た時(報道で実名が発表された後、お父様による記者会見が開かれる前)、正直「10年間も動画しかやっていないということは、あまり腕の立たない方だったのかな?」と思いました。普通、数年もすれば動画から原画に移るものだからです(動画という仕事を選んで従事される方がいらっしゃることも知ってはいましたが)。

 

もし石田基志さんが記者会見を開かなかったら、私はこのリストを見て石田敦志さんのことを勘違いしたままだったでしょう。また、敦志さんのお名前がお父様のお名前から一文字いただいたものであることも知らなかったでしょう。

 

非常に示唆に富んだ記者会見ですが、上記の点だけでも私にとっては「どんな風に生きていた方だったのか」「どんな方にどんな風に育てられた方だったのか」「どういう方が犠牲になった事件だったのか」の一端を知ることができる、得るものの大きな会見でした。

 

最後に、この記事を書いている現在、京都アニメーションでは募金の受付を行っていますのでそちらをご案内いたします。集めたお金は遺族にもあてられるそうです。

www.kyotoanimation.co.jp

 

<株式会社京都アニメーション 支援金預かり専用口座>

銀行名 京都信用金庫
銀行コード 1610
支店名 南桃山支店
店番号 048
口座種別 当座預金
口座番号 0002890
口座名義 株式会社京都アニメーション 代表取締役 八田英明
※ 表示名「カ)キヨウトアニメーシヨン」

 

BANK NAME : THE KYOTO SHINKIN BANK
SWIFT : KYSBJPJZ
BRANCH NAME : MINAMI MOMOYAMA BRANCH
BRANCH NUMBER : 048
ADDRESS : 16-50, YOSAI, MOMOYAMA-CHO, HUSHIMI-KU, KYOTO-SHI, KYOTO-HU, 612-8016 , JAPAN
ACCOUNT NUMBER : 0002890
ACCOUNT HOLDER : KYOTO ANIMATION CO.,LTD., REPRESENTATIVE DIRECTOR, HATTA HIDEAKI

 

<支援金に関する基本的な考え方>

支援金の使途につきましては、亡くなられた社員とご家族・ご親族、療養中の社員とご家族・ご親族、及び会社再建とさせていただきたく存じます。
お預かりした支援金につきましては、透明性を旨とし、収支報告をさせていただきます。なお、収支報告の方法及び時期等は、検討中です。定まり次第、ご報告させていただきます。
弊社への支援として実施いただいております募金活動などにつきましては、弊社にて確認が取れ次第、弊社HPにて順次、掲出させていただきます。

 

以上です。

今より先の未来、かつて石田敦志さんというアニメーターが腕をふるっていたことを知る人が現れてくれることを望みます。

*1:言わずもがなですが、データやリストには著作権はありません。