LM314V21

アニメや特撮やゲームやフィギュアの他、いしじまえいわの日記など関する気ままなブログです。

夢見る者たちの楽園 ファンタジア「誰も知らない悲しさ」

 暗い夜を一人で帰途につき、人とのやりとりの疲れを背負ったまま部屋のドアを閉め、鍵をかけると、緊張が消えて楽な気分になった。本人さえよく分かっていないが、この長い黒髪の女はそういう人間である。仕事の荷物を玄関扉に立てかけ上着を放ると、しかし残念なことに今日も素直な自分に付き合うだけの暇はなく、あとは食事を済ませて明日に備えて眠るだけだ。
 彼女の仕事はギター片手に歌うことである。つまり、毎日仕事として歌を歌っている。それは彼女自身の能力と環境を考慮した結果であった。歌は仕事以上のものとしての意味を持たない。それを彼女は痛いくらいに自覚している。かつては自由に歌を口にする相手がいたからだ。その唯一の大切な人さえ、今は無くしてしまった。
 今日も彼女は歌った。そして何人もの人達が自分の歌を聞いてくれた。しかし自分が歌ったのは仕事としてである。だからそれに称賛をもらっても、文句を言われても、ほとんど何とも思わない。彼女の解釈では、今の自分の歌は、心の断片が一つも現れていない、見せかけのものなので、本当の意味での歌ではないのである。よって自分の歌に対する人の反応も、全て空虚になってしまうのだ。本当に感動した様子で手を叩いてくれる人もい
るが、そんな時は嘘をついているような気分になり、悲しくなることさえある。
 身支度をおえ、彼女は喉に痛みをぶら下げたまま床についた。今日は特に疲れているので目を閉じればすぐにでも眠りに落ちるだろう。彼女はそう思いつつ毛布に包まれた自分の体温を感じていた。
 しかし予想に反して彼女は寝つけなかった。最初は喉のせいかと思い痛みを堪えて寝るよう努めたが、どうやら理由は他にあるらしく、時間が経つにつれて目はさえて意識ははっきりしてくる。
 そうなってくると彼女は時間を持て余し、明かりをつけて枕元にある小さな棚に手を伸ばした。そこから取り出したのは、薄汚れた一つの封筒だった。一度薄闇のなかの光にあて、彼女は中から手紙を取り出した。
 それは今は亡き彼女の母が最後に彼女に宛てたものだった。どうしてもすることのなくなった彼女が手に取ったのは、それだった。何度も読み返しているからか封筒も便箋も染みだらけで擦り切れてしまっている。便箋はたった一枚で、書いてある内容も至極簡潔なものだった。しかし彼女はその文を、内容など一字一句間違わぬ程覚えてしまっているというのに、かなり長い間読みつづけた。
手紙をしまい、めくっていた布団を肩まであげると、脳裏にふとなつかしい歌がうつしだされた。亡き母を歌ったものである。そして頭が全部隠れてしまうまで布団を引っ張りあげてそれにくるまり、考えを巡らせる前に彼女は歌いだした。
 彼女は明日も多くの人に出会い、事務的に歌うに決まっている。しかし一人でいる事が寂しく感じられる夜は、腫れた喉を自分のために震わせるのもいい。そう思うと、今はもういない人にしか心をあらわにすることの出来ない自分にまた一つ悲しさを見いだした。そして彼女は丸めた体をいっそう小さく縮めて、歌をおえることなく眠るのだった。


 翌朝彼女が目覚めたときには喉はすっかりよくなっていた。いつもこうなのである。どれほど調子を悪くしても、喉だけは大抵一晩で治ってしまう。だから体の調子が悪かろうが気分が落ち込んでいようが、したくもない仕事だけはできるのである。そんな自分を呪いながら重い布団をはぎ取って朝の支度を始めるのだった。
 昼のアルバイトを終え、彼女はギターケースを持ってレストラン「ガクブ」へ足を運んだ。この店には大きなステージがあり、その上で時にはピアニストが曲をながし、時にはダンサー達が踊り、そして時には彼女が弾き語りを披露するのである。
 もう暗くなってから店に着くと、彼女は店内の一番端のテーブルに席をとった。普通ステージに上がる者は自分の出番までは舞台袖の控室で待機しておくものだが、彼女は密閉された部屋に人といる事が出来ない。相手と仲良くなれればいいのだが、そうするのも苦手である。よってそのかわりに待ち時間の間、自分も夕食を食べながらステージやその日の客の入り具合を観察することにしている。このようにしておけば特定の人と気まずさを
共有しなくて済むからだ。
 昨日の賑わいに比べると、なんて客が少ないのだろう。彼女はそう思った。半数以上がいつもの客で、それ以外もほとんどが見たことのある人だった。
 始めてみる顔は三人。そのうち二人はステージの近くで大きく談笑している、彼女より二十は年上であろう男女である。もう一人は入り口の近くに座っている紺色の服を着た青年だ。
 それを見ると彼女は席を立ち、そのテーブルに歩み寄った。そして彼の背中から、彼女
が知っている名前を呼んだ。
「……すみません、人違いでした」
 振り返った男の顔は彼女の期待していたそれとは全く違うものだった。似ていたのは黒い髪と後ろ姿だけで、それすらも薄暗い店内の助けあってのものかもしれなかった。彼女はフォークを持ったその男に少し頭を下げると、早々と自分の席へ戻った。
 椅子を引いてそこへ座ると、体が重いことに気付いた。原因は虚脱感によるものだということも自覚していた。分かっていながら、彼女は何故あの男を見つけて期待の心をもったのかが理解できなかった。それを考えていると、昨日までの疲れが蘇ったように体が重くなっていくのだった。考えても答えは出ず重くなっていくだけなので、結局彼女は思考することを放棄してしまった。
 その状態のままの時間は少しだけだと思っていたが、すっとステージの上に目をやると自分の一つ前の順番のピアニストはすでに演奏をおえ、舞台は無人になっていた。彼女は急いで壁に立てかけてあったギターをケースから取り出すと、ウイングからステージに登っていった。ちゃちな照明に照らしだされたピアノ椅子に座りチューニングを手早く済ませると、予定通りの曲を奏でだした。


 四曲目をおえて彼女は手元に用意されたコップに手を伸ばした。五分目ほど水を喉に通すと、疲れも照明の熱も少し気にならなくなった。そのまま息を吐きだすと、ステージからは薄暗く見える店内に、先ほどの紺色の服を着た青年が目についた。相手も自分の演奏と歌を聞いていてくれたらしく、二人は目を合わせることとなった。
「さっきは本当に、ごめんなさい」
 先ほどの歌声より数段小さな声で、彼女はずっと向こうに座っている彼に言った。普段は本当に無口な彼女なので、突然の声に驚き顔の常連客もいた。事実、彼女自身そんな行動に出るとは思っていなかった。
 声をかけられた彼も驚いた顔をしたが、すぐに笑って手をふって返した。その表情がとても優しく見えたので、彼女は続けてもう一言喋ってしまいそうになった。もしその一言がこぼれていたなら、きっと彼女はずっと話し続けてしまっていただろう。これまでの人間関係の緊張が消えてしまって、口をきいたこともない人達の前でまるで自分の半生を悲劇に仕立てるかのように。
 彼女は弦の調子を見るふりをして下を向き、すぐに前に向き直って曲を奏でだした。そして彼女はいつもどおりのメニューをこなしてステージを下りた。
 仕事を終えてから店内を見回したがあの青年はいなくなっていた。彼は彼女の気付かないうちに店を出てしまっていたらしい。店員に聞いても、いつ出ていったか分からないと言われた。
 途方に暮れて自分のテーブルに戻り、ギターをケースにしまいながら彼女は思った。自分は別にあの青年に用事があるのではない。ただ、彼に似ていたというだけのことだ。それだけのことなのだから、むきになって一人の客を探す必要はない、と。
 いつもよりはずっと早く仕事が終わってしまった。今日は客の入りが少ないので、ステージに立つ者がみんな適当に出し物を終えてしまったからだった。たまに早く仕事が終わったので、すぐに自宅に帰ることにした。
 荷物をもって立ち上がると、一人の中年男性が寄ってきて彼女に話しかけた。目のまわりが窪んでいる、彼女のファンらしき人である。彼女がステージに上がるといつも手を叩いてくれるので、彼女はこの人のことをよく知っていた。
「今夜はもう、帰ってしまうのかい」
せっかくファンの方が話しかけてくれているので、無視はまずいと思った彼女は、ええ、たまには早く帰ってゆっくりさせてもらいます、とだけ言った。そうかそうか残念だ、と意味もないのに彼は何度も頷いた。そして何かひらめいたというわざとらしい素振りをうつと、聞いてきた。
「そういえば、今日の彼は誰なんだい? ずいぶん仲が良さそうだったじゃないか。彼は先に出ていってしまったみたいだね。探してるようだけど、何だったら一緒に探してあげようか」
彼女は目を細めて口元だけ少し動かし、彼を置いたまま店の出口へ向かった。そして彼が追っかけてくる前にドアを開いて体を外へ出した。
「あの人には何も用事はありません。私が興味があるのは、本物だけです」
彼女はそう言ってドアを閉じた。


 彼女は次の日から「ガクブ」には現れなくなった。それどころか、町中どこを探しても彼女の姿はなかった。