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LM314V21

アニメや特撮やゲームやフィギュアの他、いしじまえいわの日記など関する気ままなブログです。

オタク is Dead

http://d.hatena.ne.jp/kasindou/20060524#p1
http://d.hatena.ne.jp/ADAKEN/20060525/1148484907
 私の研究テーマにも深く関わる問題なので、興味深く読ませていただきました。
 アマチュア的なプライドを持って情報を収集・解釈・発信せず、ただ商品を買うだけの「消費者」は岡田氏の考える「オタク」ではない、ということだと思います。物事の定義が変わっていくのを嘆いてもしょうがないと思うのだけど、彼が嘆いたのはオタクの死そのものではなく、それがオタク文化の死につながるからではないだろうか、と私は思います。


 アニメビジネス、コンテンツビジネスが隆盛を誇っているのは現実を見れば分かりますが、そういうビジネスが巧みであればあるだけ受け手は「何もせず」「お客様のように」お金を使うだけでオタク文化を楽しむことができます。アニメや漫画を見、サイドストーリーやエロはネット通販か専門店で入手した同人誌で補完し、立体物が欲しくなったら完成度の高いフィギュアやおもちゃを買う。多くの場合ゲーム化もされているし、ネット上ではいくつものファンサイトで議論や意見が交換できる。
 これだけ楽しめれば、自分が創造する必要はどこにもないわけです。
 これが昔であれば、同人誌は主に即売会でしか買えなかったので入手のためにはアマチュアによる売り買いの世界に入らなければならなかったし、立体物なんて一部のガレージキットしかなかったから自作する他なかった。同じ作品のファンと触れ合うためには、自分からアクションを起こしてコミュニティを作る/参加する必要があった。ゲームに関しても自分でプログラムを配布するか、もしくはTRPGのコンベンション*1を開催する必要があった。
 つまりオタク関連の商品はオタクによって売り買いされる他なかったため、消費者であると同時に経営者、制作者である必要があったのが氏の言う「オタク」のイメージなんだと思う。実際彼は『愛国戦隊大日本』『王立宇宙軍』などいくつも作品を作っているわけだし、その原動力がオタク心に他ならないのは作品を見ればよく分かる。
 で、企業がオタク関連商品…これはメイド喫茶なども含むような広義で捉えてほしい…に手を出し、洗練された手法で需要を喚起し、満足させはじめたらどうなるか。オタクは自ら作り発信する事をやめ、企業に飼い慣らされてしまいます。←今ここです。
 そして次に来るのは受け手のレベルの低下であり、その次は個々の作品の質の低下*2、さらにその次が文化そのもののレベルの低下です。企業は文化を創造してはくれません。儲からなくなったら手を引くだけです。アニメ・コンテンツバブルの崩壊後に残るのはスカスカになった作品群と不良債権を抱えた○○喫茶(○の中身はメイドでも巫女でもなんでもいい)の経営者だけになるかもしれません。
 氏の涙はその辺りまで見越してのことなんだろうなと思うし、私は曲がりなりにもそこに関わる研究者なのだから、それをどうにかしないといけない。そういう危機感を持って修論に取り組みたいな、と思います。



 あと、これについて考えてて気付いたんだけど、ネットが普及して個人の情報発信の敷居が下がった、というのは、ことにオタク作品という面で言えば嘘だな、と思えます。確かに『スキージャンプペア』や『ひぐらしの鳴く頃に』、新海誠氏の諸作品など一見現在でないと不可能だったと思われるアマチュア作品は数多くあります。が、20年前だって上述の大日本や『農耕士コンバイン』など数多くの作品が作られていました。新海氏の作品が当たった時に「お、これでアマチュアの時代が来るか?」と思ったのだけど、みんなすごいすごいと見たり買ったりするだけで自分で似たようなものを作ろうとはしなかった。結局情報化は一部のトップを目立たせるだけで、他の人たちのやる気を喚起したりはしないのではないでしょうか。むしろ一部だけが目立つことによって「やっぱメジャーになるだけの作品はすげえな、俺には無理だな」と諦めを助長しているようにも思えます。
 あと、このブログみたいに「作品」とはとても言えない垂れ流しを可能にし、何かを言いたい、作りたいというパッションを「作品」と呼べるレベルにまでもっていくことを阻害している、とも思えるのです。

*1:みんなでゲームをする大会のようなもの。

*2:もしかしたら今ここかもしれません。

オタクの仮想敵。

 オタクの敵は誰か? などと、上の記事に関連して思ったことを徒然なるままに書いてみたいと思います。
 そもそも岡田氏がわざわざオタキングを自称しオタクという概念を彼流の意味を付与して流布させたのは、仮想敵に対する宣戦布告という意味合いが大きかったみたいです。その当時のオタクの敵とは「世間」という体制でした。
 宮崎事件での事実の捏造や事件に乗じた某ライターの存在によるネガティブキャンペーンによって、当時のオタクは今では考えられないような激しい弾圧を受けました。そこで氏は「オタク=エリート」という図式を打ち出しオタク公民権運動に乗り出したのでした。この当時オタクを社会に受け入れてもらうためには「世間」という大きな大きな敵を相手にパフォーマンスする必要があったのでした。
 今でこそ「氏のような人がオタク=人とは違う特殊な人というレッテルを作り出し、オタクを自閉的な存在にしてしまった」という意見もあります。が、それは今そのレッテルが必要なくなりむしろ邪魔になってきたからこそ言えることで、当時はそうとでも言っていないと存在自体が許されないような状態だったのです。ですから氏の戦略や仮想的の設定はベストだったとは言わないまでも、当時の時勢を考えれば妥当だったのではないか、と私は思います。
 閑話休題
 で、結果として現在漫画をはじめ萌え、メイド、食玩、フィギュアなどのワードがマスメディアでも散見されるくらいにオタク文化は一般化しました。今人様の前で「私はガンダム(仮面ライダーでもいい)が好きです」と言って得られる反応は15年前のそれと比べるとずいぶん好意的なものになっています。それを考えればオタキングは敵に勝ったと言えます。もう倒すべき敵はいないはずなのに、何故氏は壇上で泣かなければならなかったのでしょう?
 それは簡単な話で、新たな敵が現れたからです。それはコマーシャリズム(商業主義)です。これがただの敵であれば氏は90年代初頭のように立ち上がればいいだけのことです。氏が泣かざるを得なかったのは、今回の戦いに勝ち筋が見当たらない…つまり負けが見えていたからではないでしょうか。氏は現在プチクリというポジティブな概念を打ち出して再度戦おうとしています。しかしそれはせいぜい局地戦的な作戦であり、大局においての勝利はおそらくないでしょう。先ほど新しい敵と書きましたが、実際にはオタク文化とコマーシャリズムとは不可分のものであり付き合いは長いのです。だから氏には今度の敵がどれだけ強力かよく分かっているのです。
 世間とか体制を敵に回して勝利を収めたオタキングが敵わないと泣かざるを得ない相手・コマーシャリズム。オタク諸氏はそれほど大きな敵と対峙しているのだということを肝に銘じておいていいと思います。負け戦の後には何もない荒野が残るだけですよ。


 ちなみに近年主にネット上で信頼をガタ落ちにさせているジャーナリズムですが、たとえば今彼らが直面している強敵もまた同じコマーシャリズムです。政府とか体制の悪を暴いていればよかった素朴な時代は終わり、ジャーナリストもスポンサーや視聴率との間で四苦八苦していかないといけないのが現状です。スポンサーの言いなりになっていては真実のジャーナリズムを達成することなどできず、結果として我々のよく知ってるグダグダな自称「ジャーナリズム宣言」になってしまうわけです*1
 ですから、オタクもジャーナリズムも今抱えている問題は同じだというのが私の見解です。ネット上では○○住人(2ちゃんねるでもふたばでもいい)がジャーナリズムのダメさ加減を露呈した記事を取り上げてせせら笑っていたりしますが、自分たちも同じ敵を相手に屈しようとしていることに気付いていない様子を見て暗澹たる気持ちになったりします。
 他にも文学界なども同じような問題を抱えているように見受けられます。足を引っ張り合うのではなく、お互いの経験や状況を共有し、いっしょに強敵への対策を講じないといけない、と私は思います。

*1:まあ朝日に関しては他にも問題があるように思われますが。